『私が、生きる肌』レビュー

これを愛と呼べるか

美しい顔立ちをした女が、遠目では全裸に見間違うような奇妙なボディースーツを身にまとい、ヨガに集中している。その部屋に並ぶオブジェは、切り刻んだ衣服が材料だ。

インターフォン越しに彼女と連絡を取る年配の女はハウスキーパーだろうか。

別室には、ボディースーツの女を監視カメラで観察する男がいる。カメラの先にいる男の視線に気がついた女は、彼をまっすぐに見つめ返す。その目から感情を読み取るのは難しい。

そして三人は、何か秘密を隠している。

映画『私が、生きる肌』の監督・脚本は、世界的名声を手に入れながらも、アメリカのメジャースタジオとは距離を置き、本国スペインで独自の映画を撮り続けているペドロ・アルモドバル。

配給会社は、『私が、生きる肌』を「アルモドバルが辿り着いた最高傑作」だと煽っている。確かに、この物語に隠されたおぞましい真実は、一つの到達点だと思わせる極端なものだ。(最高傑作であるかはさておき)

登場人物たち三人が当たり前のようにとる言動は、真実が明かされるまで不可解である。それゆえ、その不可解な言動の根源になる真実を求めて、観客たちは迷い込むように物語へ没入する。

彼らの素性は、だんだんと、ときには性急に紐解かれていく。しかし、すべてが明らかになってもカタルシスはない。真実が観客に与えるのは、開放感ではなく、もっと内省的な感情だ。

三人を通して、自身の生と性を見つめなおすことになるだろう。

ミニシアター系だが、観客に不穏な予感を与えながら進行するサスペンスとしての引きの強さがあるため、商業性も十分にある。ペドロ・アルモドバルは、芸術性にあぐらをかく傲慢な監督ではない。

ただ、『私が、生きる肌』のあくは相当強い。

ジャン=ポール・ゴルチエがデザインした、他者を拒絶するような異彩を放つボディースーツ。主人公が遂げた狂気の所業……。

ややもすれば人を選ぶかもしれない。その分、自身の皮膚感覚とは違う世界の見方に触れられる可能性がある。

熱心な映画ファンに独占させるのはもったいない、エッジの効いた傑作である。

評点(10点満点)

【8点】これは愛ではない。

ネタバレ感想

(注) ここ以降は『私が、生きる肌』のネタバレがあります。

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皮膚感覚を辞書で引くと、「皮膚で感ずる感覚の総称」という字面どおりの意味とは別に、「長年、見聞きしている間に身に付いた勘」ともある。

肌を奪われることは、心のより所になる経験則をも同時に奪われるようなものだろう。しかしビセンテは、ロベルへの復讐心を糧に、ヨガで自我を見つめ続け、新たな肌が心を侵食することを防いだ。

その一方でロベルは、憎むべきビセンテを見失ったばかりか、ガルの亡霊をベラに見いだし、心を惑わされてしまった。そこにいるのはビセンテであり、ベラという女はいなかったというのに。

ガルは家を捨て、セカと駆け落ちした。夫婦仲が破綻していたのは明らかだ。ガルが身を投げたのは、己の変わり果てた肌に絶望しただけではなく、ロベルの籠の鳥になることを恐れたのではないだろうか。

その後、ロベルはベラを創造することで、ガルを籠の鳥にすることを代理的に成し遂げる。そればかりか、人工皮膚に耐火性まで持たせた。まるでガルの焼け落ちた肌を癒やすかのように。

一見すると、ガルに対する愛ゆえの異常な固執。

ならば、なぜロベルはベラに心を惑わされたのか。それが愛であったなら、ガルの似姿でしかないベラが喚起する感情は空虚なものだったはずだ。

結局のところロベルは、ただ己の欲望を具現化したのだ。ベラに見いだしたガルの亡霊は、その欲望の影に過ぎない。そこにあったのは、他者への慈しみではなく、身勝手な自己愛だけだったのだ。

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